『そしてわたしは、幸福の姿を知る。
 今感じているものこそが、自分にとっての幸せなのだと』

 口にすると本当になるというなら、わたしが主役の物語は、そんな書き出しにしてみようと思った。
 次の行には、幸福の姿を知るための願望。

『できるだけ、毎日いいことがありますように』
『よかったら、新しい友達ができますように』
『あわよくば、その人と恋人になれますように』

 そんな想いを書き連ねた日記は、自分の気持ちを整理するために書いたもの。
 読み返すこともなければ、ノートを使い切るころには『中を見るのも恥ずかしい』と言って捨ててしまうようなもの。
 ……だけど、少しは内容にも気を遣って。
 万が一、万が一落としたりして、誰かに見つかっても。ぎりぎり大丈夫な内容にしよう。
 そう、できるだけ前向きな言葉が多いものにしよう……。

 そう思って日記をつけ始めた三か月後。
 口にしなくても、思っているだけで本当になってしまうのだろうか。
 わたしは実際に日記をなくし、そして誰かに拾われてしまった。
 毎日こつこつと日々を記録したノートは今、見知らぬ女の子が手にしている。

 ――頭に角が、背中に羽根がある若い女の子に。である。


「ごめんなさい。読みました。これ」
「うん。それはもう察した……」

 見るからに恐ろしく、攻撃のためだけにあるような鋭く大きな角。
 そのサイズで本当に空を飛べるのだろうか。と思ってしまう、小ぶりの蝙蝠に似た羽根。
 そして、露出度の高い格好。
 そんな『いかにも』な姿をしているのに、女の子は今わたしの目の前で両手をつき、いわゆる土下座の姿勢をとっている。

 ひとり静かに書き続けていた日記を盗み見られて、しかもある夜突然一人暮らしの家へ不法侵入された。
 彼女にされた二件の犯罪行為に、わたしは本当は少しは怒りたかったのだけど……こうも素直に謝られると、その気持ちもうせてしまう。
 ある日突然ファンタジー世界の住人と遭遇したわたしは、意外にもうろたえることなく、というかすっかり呆れて彼女に質問をしていた。

「もう、中を読まれてしまったことは諦めた。
 それよりも、どうやって持ち出したのかの方が気になるんだけど。
 わたし、日記を部屋から出したことないし。家であなたを見かけたこともない」
「ああ、それはね?
 お姉さんが寝てる間にそーっと忍び込んで、そーっと持ち出して、家に帰って読みました。
 ……本っ当にごめんなさい!」

 質問するとすぐさま答え、すぐさま青ざめて今度は顔の前で両手を合わせる。
 きっと悪魔の類と思われる彼女は、悪魔というものに持つイメージを、軽く砕いていくほど正直だ。
 思わず、こんな悪魔なら友達になれそうだ……と思うほどには。

「でもね。あたし、お姉さんがどんな人か。どうしても知りたかったの」
「だから、日記を見るのが一番手っ取り早いと思ったわけね」
「その通りでございます」 

 しかもその上、必死で謝れば何とかなると思っていそうだ。
 彼女は再び深々と頭を下げ、どうにかわたしに許されようとしている。
 その対応。
 わたし相手の場合、あまり間違いでないのが悔しい。すでに同情してしまい、つい理由を聞いてしまっている。

「なんでまた、そんなことしようと思ったの」
「それはね? あたし、この通り夢魔でして。
 まだ見習いなんだけど。人間の夢を吸い上げる仕事をする……予定なわけです」
「……それは、わたしの知ってる夢魔のイメージで相違ない?
 夢魔って人間にいやらしいことをしてエネルギーを吸い上げる連中でしょう」
「なんかそれ、ちょっと噂に尾ひれがついてる気がするね?
 ……まあそこはいいや。おおむねはあってる。
 でもねこの仕事、始めが肝心だからね。
 結局接客だから……もう『天職!』って人もいれば。
 最初がうまく行かなくて『自分には向いてない』って諦めちゃう子もいるらしいから。
 だから、最初にお願いするのはいい人が良かったの。
 で、担当予定の区域にいる……できるだけいい雰囲気の人の……くわしい人柄がわかりそうな情報を探してた!」
「そこで発見したのがわたしと、わたしの日記だったってわけですか」
「はいまさに!」

 しかし、今、彼女が一切嘘をついていないとして。
 ある日偶然どこかで発見したと思われるわたしに関心を持ち、ターゲットに定め。
 『わたしの人間性を知りたいから、日記を勝手に持ち出して読む』
 と判断したのは、一見正しいようで間違っている。
 
 なぜなら、わたしは日記の中で、それなりに見栄を張って、実際より自分を善人に見せている。
 内容のすべては
 『こんなことが起きたらいいな』『こんなものがほしいです』という願望か……あるいは『こんな自分になれたらいいな』という思いで書いた文章だ。

 日記の中で、わたしは演じた。
 本来の自分よりも、少し優しいわたし。
 本来の自分よりも、少し冷静なわたし。
 本来の自分よりも、人間的に成長しているわたしを。

 つまり、この日記で、わたしの本当の人間性を判断するのはできない。
 わたしは結果的に、彼女に自分を偽ってしまったことになる。

「それでね。お姉さん。どうでしょうかあたし。
 あたしの初めての相手になってくれないかな?
 本当は女同士って、男女のペアよりエネルギーを組み上げるのが難しい?
 から、新米サキュバスには推奨されてないんだけど。
 このノート見せたら『絶対二人は相性バッチリです。これなら同性でもOK』って審査も一発で通ったよ」
「審査があるのね。ていうか、審査員にも見せたのね?
 さらに言えば審査員は絶対適当を言っているね」

 毎日日記を書いていただけなのに、気づくとその内容はおそらく人間界でないところにまで持ち込まれ、面白い例だと思われているらしい。
 思わずため息が出るけど、もう見られてしまったものはしょうがない。
 ここまできては『比較的ダメージの小さい記載内容で良かった』と、良かった探しを始めるほかなかった。

「あーっ、審査に使ったのもごめんなさい!
 ……でもあたし。どうしてもお姉さんが良かったの。
 だからちょっと手段も選んでられなかったっていうか。
 なんでかっていうとね、それは……」

 しかし、それと、彼女の頼みを聞くかというのはまた別問題だ。
 彼女が正直に事情を告白した以上、わたしも嘘はつけない。
 『嘘のない真面目な人間になりたい』……日記にはそんなことも書いた気がする。

「……気持ちは嬉しいけど、期待には応えられないと思う」
「なんで?」

 言うと、彼女の顔がわかりやすく落胆し、彼女の声が『納得いかない』と訴え始める。
 せっかく好意を持ってくれたらしいのに、断るのは正直残念に感じる。
 だけど日記を見てわたしに関心を持ってくれたのであれば、なおのこと、日記の中だけにいる『理想の自分』がとるであろう行動をわたしは取りたかった。
 『理想の自分』は、人であろうと悪魔であろうとだましたりしないのである。

「なんでかっていうとね? その日記は、実際のわたしを書いているとは言えない。
 書き始めた日にね、こんな風に誰かに拾われて読まれることをわたしは想像したの。
 だから、かなり気取って、綺麗な言葉を選んでる。
 嘘ではないけど、理想的な願望ばかり並べた日記になってるの。
 その証拠に。その日記の内容、ちょっと善人すぎない?」
「あー……」

 そこまで言い終えると、彼女は納得したような声を上げた後、しばらく黙りこんでしまった。
 正直に真実を打ち明けたはいいけれど、同時にわたしは気まずくもある。
 なぜなら、日記を読んだ彼女が『この人ならいける』と考えた理由にも、実は心当たりがあるからだ。
 わたしはある日の日記に、こんなことを書いた。

『誰にも言えない、日記にしか書けないような心の声。
 本当は、それを誰かに聞いてほしい。
 できれば間接的に。
 できれば事故のような形、あるいは誰かが『わたしについて知りたい!』と思った結果として、聞かれたい。
 そう、つまりこの日記が読まれてしまうことのような。
 あー、そんなことが起きないかなあ』

 ……そんなことが起きたのに、現実には幸せの形を知るような出来事にはならなくて、とても残念だ。
 沈黙は時間とともに、貴重な出会いの機会まで持ち去っていく気がする。
 しかし、長らくうつむいていた彼女は、そこでふと小さく息を吐くと、わたしの顔を見てこう言った。

「あたしは、それでもいい……と思ってるよ。
 それでも、お姉さんがいいなあって思ってる。
 正直、まったく想定してないことじゃ、なかったし。
 だってお姉さん。
 いつでもどこでも本音しか言わない。だけど完璧に素晴らしい! なんて人。
 人間だろうと悪魔だろうと、まずいないよ。
 だから、口にする言葉が……実際よりも立派だったり、大きかったり……嘘や見栄になってても。
 そうなることを本当に目指しているのであれば……あたしはちょっとくらいいいかなって思うの。
 少なくとも、あたしはこの日記をきれいだと思った。
 きれいになりたい人が書いた文章だと思った。
 だから、日記の大体全部がおねえさんの格好つけでも、それでもあたしは良くて……。
 聞きたいのは……。ひとつだけ。です」
「え?」

 もうさすがに、隠しているような事実はないはず。
 そう思ったのに、彼女は今度は正座をしてわたしの前に向き直り、真剣な表情で聞く。
 これまでいろいろな言葉を交わしたけれど、本当にしたかったのは次の質問だ。とでも言うように。

「このページの『友達が欲しい。できれば年の近い女の子の』って記載は本当?
 この『友達』って、別に人間に限定してないよね?
 悪魔でもいい? 悪魔でも応募していい?
 もう別にさっきの仕事の話はいいよ。
 あたし、本当は日記を読んで、あたしと似たようなこと考えてる人がいるなって思ったの。
 だから、今日ここへ来たの」

『そしてわたしは、幸福の姿を知る。
 今感じているものこそが、自分にとっての幸せなのだと』

 口にすると本当になるというなら、わたしが主役の物語は、そんな書き出しにしてみよう。
 そう思い、わたしはある日から日記を書き始めた。
 次の行には、幸福の姿を知るための願望。

『できるだけ、毎日いいことがありますように』
『よかったら、新しい友達ができますように』
『あわよくば、その人と恋人になれますように』

 そんな想いを書き連ねた日記は、自分の気持ちを整理するために書いたもの。
 少しは内容にも気を遣い、万が一誰かに読まれてもぎりぎり大丈夫な内容にし、できるだけ前向きな言葉であふれるように書き続けた。
 そうして三か月後。
 わたしは実際に日記をなくし、そして誰かに持ち出され、読まれてしまった。
 そしてそのうち、毎日こつこつと日々を記録したノートは今、見知らぬ女の子がわたしを『友達にしたい』と感じる要因に生まれ変わってしまったらしい。

 頭に角が、背中に羽根がある女の子が、わたしを見ていた。

「そういう、ことなら……」

 彼女が正直に事情を告白した以上、わたしも嘘はつけない。
 『嘘のない真面目な人間になりたい』……日記にはそんなことも書いたからだ。

「どうぞよろしく、お願いします!」

 たぶんわたしは、これから彼女にノートを返してもらい、日記の続きを書くだろう。
 意外と自分に向いている習慣だと知ったから、死ぬまで書き続けられるかもしれない。
 最終的に幸せの形を知って終わる素晴らしい人生になるかはわからないけれど、少なくとも今日の日記の書き出しは、明るいものになる気がしている。

「やったー!!」
「そんなに喜んでくれて嬉しい。でも、今夜中の三時だから」
「ふーう! あたしこそよろしくお願いしまーす!
 ところでどう思う? 将来的に、あたしと専属契約を結ぶ気になったりは……」
「いくらなんでも早すぎる。まずはお友達からということでひとつ」
「ひとつ? あっ、てことは前向きに検討してくれてる?」
「それはー……」

 咲のことはわからないけど、とりあえず。
 日記に書くためにも、まずは彼女の名前を聞こうと思う。
 いや、その前に名乗らなくては?
 そう思ったのに、口が滑ってわたしの声は別の言葉を発する。
 突然すぎる新しい始まり。でも、わたしはそれを嬉しく感じているのだ。

「してる、かも」
「やったー!」
「だからね!? 今はね!? 時計見てね!」

 悪魔と言うにはずいぶん無邪気な彼女が、真夜中にもかかわらずぴょんぴょん跳ねる。
 それをたしなめつつ、わたしは、これまでのどの日よりも、今日が一番日記に残したい日かも……と思わず笑い……。
 その、ちょっと触れるには注意のいる彼女の頭を、そっと撫でた。