少女001

【イラスト:Hiromu】

 東條 紗雪(とうじょう さゆき)は周囲から薄情な子と噂されていたが、対するわたしは、周囲から分別のある女だと認識されていた。
 人が人に抱くイメージとは、曖昧で適当だ。
 多数の人間が一人の人間に対しておおむね同じ印象を抱くのなら『まぁ、きっとそれが真実なのだろう』という形で、あっという間に広まってしまう。
 だけど、今わたしの目の前に広がっている光景を見たら、少なくとも紗雪は薄情な子とは呼ばれなくなるだろう。
 たとえ本人が、あくまで自分は薄情であると主張しても、だ。


「ばかだね、おねーさん」


 今、わたしに向かって声をかけてくれているのが、噂の紗雪だ。
 言葉こそ呆れているようだが、声音は静かでやさしい。
 紗雪はベッドから起き上がれずにいるわたしのすぐ目の前まで来ると、ふふ。と笑って額と額をくっつける。

 ごく至近距離で、いとおしげにこちらを見つめたかと思うと、急にふいっと、飽きたみたいにその場を離れる。
 なのにそのくせ、また、とことこと戻って来て、すぐそばにしゃがみこむ。

 平日の午後四時。
 薄暗い部屋のカーテンの向こうでは、まだ夕焼けも始まっていない。
 普段なら、仕事をしている時間だ。


『体調を崩したので、今日は図書館に行けません。ごめんね』

 紗雪にそう連絡したのは、あくまで彼女にわたしを探させたり待たせたりしないためで、決してこうして看病して欲しかったからじゃない。
 だけど紗雪は今ここにいる。
 同級生たちから薄情と評され、自分自身もそれを認め、わたし自身まずここへは来ないだろうと思っていた紗雪は、今ここにいる。

「この前の本、読んだよ。おねーさん」

 ベッドをぴょんと覗き込むようにして、紗雪は低めのゆっくりした声で言う。

「どうだった?」
「ひどい話だった! 古典って、悲しくなる理不尽な話ばっかり」
「ねぇ? わたしもそう思う」

 紗雪はテレビでよく見る女優さんに少し似たとても可愛らしい顔立ちをしており、十七歳という年齢にしては落ち着いていて、そして、一見他を寄せ付けぬ、ひんやりした雰囲気をまとっている。
 でも、実際は歳相応に子どもっぽく、それ以上に常識的で親切な性格だ。
 紗雪は褒められるのを嫌がり、いつも良いことをした後、わざと素っ気なく振る舞う。
 今もそれだけ話したかと思えば、ぷいっと視線を逸らして、まるで関心がないようなふりをする。
 けれどそれは、人と深く関わることで傷つくのを恐れる、紗雪の臆病な心のあらわれだと、わたしはわかっている。

 そんな紗雪とは、半年前に図書館で知り合った。
 ある日の貸し出しカウンターで、わたしが返却しようと取り出した本が、ちょうど紗雪の探していたものだったのだ。

「あ」

 紗雪が発したその声は、結果として、女子高生とOLが知り合いになる珍しい展開を招いた。
 だけどその日はそれだけ。
 わたしは本を紗雪に渡し、事態を把握した司書さんは次の予約のないことを確認する。
 そしてそのまま本は紗雪に貸し出されるよう処理され、一連の流れが完了したところで、わたしたちは別れた。

 市内の有名私立に通う可愛い子と、近所の小さな図書館で一瞬だけ話した。
 わたしと紗雪の接触は、それでおしまい。
 そうだとばかり思っていたのに、実際はそうはならなかった。
 一回の遭遇が二回になったのはすぐで、二回が十回になるまでは、二ヶ月もかからなかった。

 わたしたちが懇意にする図書館は狭い。
 蔵書はささやかで、わたしは現地で本を選ぶことよりも、主に他の施設から取り寄せた予約本を受け取るのに利用していた。
 つまり、そんな小さな場所であまりにも何度も会うので、わたしと紗雪はそのうちお互いなんとなく無視できなくなる。
 さらに本の好みもなんだか似ているものだから、ある日わたしから

「その本の感想、よかったら聞かせてください」

 と声をかけたことで、とうとうわたしたちは本格的に知り合ったのだ。

「……いいですよ?」


 図書館で見かける時も、そうじゃない時も、紗雪はいつも一人だった。
 中学の頃、友達だと思っていた子たちにある日急に無視されるようになってから、特定の友人は作らず、他人そのものに対してもまるで期待しなければ、誰へも強い愛情を抱かないようにしているのだという。
 その気持ちは大変わかる。
 わたしも最近、唯一と言っていい友達と疎遠になって以来、すっかり孤独になってしまっていた。だから、図書館に来ていたのである。

 というと一見論理が飛躍しているようだけど、これはわたしなりになかなか理屈の通った話だった。
 何が言いたいかというと、まず、友達のいない人間は『他人と過ごす時間』というものが人よりも少なく、その分時間の余裕がある。
 時間の余裕ができると、今度は『では、教養でもつけようか』という気分になる。
 そこで読書だ。世界の名著を読むなら今だと思い、わたしは図書館に通うようになった。
 そしてたくさんの本を読むうち、孤独には、本当に読書がしみると実感する。
 だって、どんなに良い本を見つけたところで、直接本の感想を話す相手すら自分にはいないのだと、何度も何度も痛感する羽目になるのだから。


 だけど、それはある日突然終わった。
 紗雪が現れたので、わたしは本の感想を話す相手ができてしまった。
 それは紗雪にとっても同じだった。
 だからわたしたちは、思った以上にそれに夢中になったのだ。


「自分なりに努力はしてきたんだけど、いつも周りに馴染めないで、最後は一人になっちゃうの。
 だから、自分は、実は人間じゃないのかもとか思ってさ。
 こういう本が好きになっちゃった」

 わたし、もとい、わたしたちが読むのは、見事に怪物の出てくる作品ばかりだった。
 様々な理由から周囲とは違う容姿や考え方に育ち、孤立してしまう存在。
 もちろん、いつも怪物側が被害者とは限らない。そうなって自然と思える怪物もいる。
 だけどわたしたちは、どの怪物キャラクターにも等しく共感した。
 その姿が、自分達によく似ていたからだ。

「わかる。その気持ち。
 実際、人気者の人間キャラより、ひとりぼっちの化け物キャラの気持ちの方が、よっぽど理解できるの」

 そう言って笑いながら、学校で誰とも仲良くしないせいで暗い子、冷たい子だと思われている紗雪は、わたしに別の面白い本を教えてくれた。
 あくまでわたしとは読書仲間として親しむ、淡白な関係を望んでいるのかなと思っていたら、なんでもない日に突然贈り物をくれたりもした。

「お金余ってたから」

 紗雪はどうでもよさそうにそう言っていたけど、この前は『家が厳しいからお金は最低限しか持たせてもらえないし、高校生のうちはアルバイトも禁止されている』と言ってなかったか。
 しかも、今渡してくれたこれは、わたしがこの前SNSで見て『かわいい』と言ったものではなかったか。

 紗雪の優しさは不器用で唐突だ。
 お礼を言えば鬱陶しそうにし、かと言って無言で笑顔でいると、居心地が悪そうに睨んだり蹴ったりしてくる。
 その時も嬉しかったので、思わず箱から出さずに部屋に飾ったら怒られた。
 でも今も飾っている。


「これ、まだここに置いてたの? 早く箱から出して使いなよ……」

 そう言われながら、ベッドから見える位置に置いている。

「宝物だからいつも見えるところに置いておきたいんだよね。
 あれ、ありがとうね。
 わたしの誕生日もう過ぎちゃってるって知ったから、急にプレゼントしてくれたんでしょう」
「ちがうよ。友達のいない私は、同じく友達のいないおねーさんを哀れんでるの。
 だからたまたま見つけたものを気まぐれに贈っただけ」
「それ、同病相憐れむっていうんだよ」
「ちーがーう。そんな綺麗なものじゃない。だから期待しないで」

 紗雪はこの期に及んで、わたしに対して、わざと難しい、あるいは冷たい言い方をして距離を取ろうとしているように思える。
 今日だっておろおろと、身体によさそうなものがいろいろ入ったスーパーの袋を提げてやってきたくせに『自分が食べたかったから買ってきただけ』と譲らない。
 だけどわたしはそんな紗雪がいとおしい。
 怪物に共感しすぎるほど共感するわたしたちは、つまりほぼ怪物に等しいお互いの気持ちもよくわかるのだ。


「……ねぇ、おねーさんの具合悪い理由って、うつるやつ?」
「ううん。貧血とか低血圧とか、自律神経失調症とか、そっち系」
「そー……」

 紗雪はそれだけ言うと、さっきからまるで進んでいない本へ視線を戻す。
 そんな彼女は周囲から薄情な子と噂されていたが、対するわたしは、周囲から分別のある女だと認識されていた。
 しかし、これは薄情な子がすることだろうか。
 紗雪は不愛想かと思えば、いつも不安げにこちらを振り向いて、不慣れな手つきで大切にしてくれる。
 また裏切られることを恐れながら、どうにか気持ちを伝えようとしてくれる。
 紗雪はいつか『もう誰にも期待したくない』と言った。
 その気持ちはとてもわかる。
 相手と一緒に過ごした時間の分だけ、心を砕いた分だけ、まったく期待せずにいるというのは難しくなるし、誰だって仲良くなった以上は長く愛されたい。
 それが難しいのなら、いっそ一人でいようというのも合理的に思える。
 でも、わたしには別に期待してくれて構わないのだ。
 少なくともわたしはあなたを裏切ったり、突然ひとりぼっちにしたりはしない。
 なぜなら、あなたが思う以上に、わたしはあなたを必要としているし、あとそれから、積極的に誰かを傷つけようとする元気もない。わたしも結構疲れているのだ。紗雪と同様に。
 だから本当は寄り添いたいし、今みたいに身体の調子が悪い時は、甘えさせてほしくなるのだ。


「おいでよ」

 だからわしは、すぐそばにいるのに、ずっとこっちを見ているくせに、なかなかどうして近づいてこない紗雪に声をかけてみる。
 果たしてこれは、分別のある大人の女性がすることだろうか。
 とりあえずわたしには、わからない。
 わからないけど、せっかく知り合ってしまった孤独な化け物同士、今は二人で幸せになりたい。
 紗雪がどう答えるのか、知りたくてたまらない。


「一緒に手を繋いで寝てほしいな。でないと淋しくて泣きそう」
「そう」

 長くて短い沈黙が流れる。
 わたしは目を閉じ、それから、少しだけベッドの壁側にずれてみる。

「しかたないね。しょうがないから……言う通りにしてあげる」

 ゆっくり近づく紗雪の髪の毛からは、やわらかい蜂蜜の香りがした。


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