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カテゴリ: オリジナル百合小説


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 私が体調を崩したと言って保健室に隠れたら、それが私たちの合図なのだ。

 私は白いカーテンの内側に入り、ベッドに横たわって目を閉じる。

 すると、伶奈(れな)さんがやってくる。

 そして、眠ったふりをする私に優しくキスをしてから、長く伸ばした私の髪の毛をそっとよけ、ブラウスのボタンを静かに外して、私の血を吸うのだ。


〝無償でお願いなんてしないわ。

 一度血を頂く度に、貴方のお願いを一つ聞いてあげる"



 私に正体を打ち明けたその日、伶奈さんはこんな提案をした。

 それは魅力的な誘いだった。

 伶奈さんのような美しい吸血鬼に血を捧げるだけでなく、お願いまで聞いてもらう。


 それは夢のようなことに思えた。


 私の頭には即座に様々な欲求が浮かび、でも、それは果たして叶えてもらってもよいものかと迷った。

 たとえば悪いお願いをしたら、伶奈さんは呆れて、去ってしまうのでは思ったのだ。


「キスがしたいの?」


 ようやく私がお願いを口にした時、伶奈さんは『そんなことでいいの?』と、不思議そうな声音で尋ねた。

 私は黙って頷き、今日に至る。

 私は昔から感情を表現するのが苦手だ。

 だから伶奈さんには、今も私が、無償に近いお願いで血を提供している、危篤な女に見えるらしい。


「貴方が良い子でよかった。

 あの日本当は、いけないお願いをされたらどうしようかと思っていたの」


 今日もたっぷりと血を吸ったあと、伶奈さんは唇についた私の血を指で拭い、舐めながら言う。

 いいえ、私は悪い子です。

 伶奈さんが受け入れられるギリギリのお願いを探して、欲求を満たしながら、いい子を演じるのもやめようとしない、私は悪い子です。

 だって、私は伶奈さんに他の人のところへ行って欲しくない。

 伶奈さんが他の子の血を吸うなんて耐えられないから、献身的なふりをして、興味のなさそうな無表情を装って、あなたの訪れを心待ちにしているんです。


「……伶奈さん」

「なあに?」

「もう少し、血を吸って行ったらいいんじゃないですか」

「じゃあ、お願いももう一回聞かないとね」


 さっきまで私の首筋に噛みついていた唇が近づき、私はそっと目を閉じる。

 私のお願いはいつまで聞いてもらえるだろう。

 考えるのも怖いから、私は黙ってその背中にしがみついた。

少女001

【イラスト:Hiromu】


◆第1弾はこちら
◆第2弾はこちら



 秋のある日は交通事故に遭って、少し入院することになってしまった。


 怪我自体は大したことはなく、入院はちょっと大げさに思えた。
 だけどこの数日間は、結果的に、わたしにとってとても大切なものになった。
 友人の東條 紗雪(とうじょう さゆき)との関係含め、色々なものに少し前向きになれたからだ。


「よかった。思ったより元気そうだね」


 一週間ぶりに会った紗雪は、ベッドに寝ているわたしを見たとたん大きく息をつき、ホッとした顔になった。
 それを見て、わたしも同じ表情になる。
 友達がお見舞いに来てくれるというのは、こんなにも嬉しいものであったか。


「……あの。わたし、来ていてだいじょうぶ?
 これから、会社の方が来られたりしない?」
「ああ。大丈夫だよ。
 昨日、みなさんでお見えになられたけど……。
 入院といってもこの通り、そこまでひどくはないからね。
 わざわざ来てもらうのが申し訳ないくらいだし。
 『また来るね』って言ってくれる人もいたんだけど。
 『一回来てくださっただけで十分です』って、お断りした」
「たいしたことない……? そんなこと言わないで。
 確かに、結果だけ見ればそうかもしれないけど……。
 おねーさんの本音としては違うでしょう?」


 わたしの言葉に、紗雪の瞳が小さく揺れる。
 高校二年生の紗雪は、学校では『薄情で冷たい子』などと噂されているが、実際はこの通り、心優しく思いやりのある性格だ。
 ただ、感情が表に出にくく、自分の気持ちを伝えるのが苦手なだけなのである。
 だけどわたしは紗雪のこの一言に、どれだけの気持ちが詰まっているかよくわかる。
 思わずほろりと泣いてしまいそうになった。
 わたしの方がはるかに年上で、社会人であるにもかかわらず、だ。


「ありがとう。紗雪のおっしゃる通り。
 ……わたしの本音としてはね。死ぬかと思った。
 本当に怖かった。
 生きていて本当に良かったよ」
「ほら! 無理しないで。
 会社の人にならともかく、私の前で嘘つくことなんてない」 


 事故に遭ったとき感じたのは『わたしの人生は、ここで終わりなのだろうか』という恐怖だった。


 わたしという人間はごく平凡、いや、平凡以下くらいの二十代のOLで、地元を基準に考えたとき『まあ、そこそこだね』という学校に入り卒業し、『まあ、こんなところだよね』という企業に就職し、実家からそこが少し遠かったという理由で、一人暮らしをして生きている。
 かといって地位は安定しているかというと、そうではない。
 『来年の自分がどうなっているかわからない』という漠然とした恐怖は常にあり、今何者にもなれていない自分は、今後も何者にもなれないだろうという、うっすらとした諦念がいつもある。

 結果『若者の貧困』という言葉にも『高齢者の不安』という言葉にも同じくらい当事者意識を感じて己の未来を憂いては悲しくなり、だけどリスクを恐れる性格から『宝くじを当てて一発逆転なんてありもしない夢を見るくらいなら、くじを買うのと同等の額を貯金しておこう』と考え、日々をとにかく地味に生きているタイプである。


 そんなわたしは、親しい人も非常に少ない。
 恋人はもちろんおらず、友達さえごく少数で、紗雪に出会うまでは、休日一緒に遊ぶ相手はゼロだったのである。
 しかもわたしは、もともと人づきあいが苦手だとか、一人で生きていきたいと願っているとか、突然新しい環境に放り込まれ友人作りに失敗したというタイプでもなかった。
 人並みには、人とのかかわりを求めて生きてきた。
 なので、ある地点までは、そこそこ友人がいた。
 だから自分は、人並みに友達がいる人間だと思っていたはずなのに。
 気づいたら、孤独になってしまっていた。


 つまり、自分には人として何かが欠けている。
 何か問題があるので、ひとりぼっちになってしまったのだ。
 そもそも、その理由がなんなのかきちんと理解していないので、このありさまなのだ……。
 と思っていたのである。


 ゆえにわたしは、事故に遭ったとき、自分はあまりにも何もしていない。何も手に入れていない。ここで終わるのはあんまりだ……。と、強く思った。

 何も持っていない人生だから、執着する要素もない。突然消えるように死んでしまえたなら、それはむしろラッキーだ。
 以前はそう思うことさえあったのに、いざとなるとわたしは『終わり』を拒否し、明日が続くことを望んだのである。
 

 そして今に至る。
 これだけ大げさなことを考えたわたしは『この程度では、まず終わらない』という痛みしか負わず、事故を起こした方も至極まっとうな方だったので、すべては粛々と、こんなにも早いのかというスピードで、納得のいく形で片付いた。
 あとは怪我を治して復帰するだけ。
 その前に、もしこんなわたしの顔が見たい人がいるのでしたら、ぜひいらしてください……。という状態だったのだ。


「紗雪。もうバレバレだと思うから素直に言うね。
 入院するって決まったとき、実は怖かったんだ」
「怖かった? ……ああ、わかる。
 私もきっと、おねーさんと同じことを考える。
 それは入院費とか、しばらく会社や学校を休まなきゃいけないってことよりも……」
「ご名答。入院してる間、誰もお見舞いに来てくれないんじゃないかっておびえていたの。
 せいぜい親が来て終わりなんじゃないかな、ってね。
 だから今、紗雪が来てくれて嬉しい」
「……もう。
 そりゃあ、来るよ。約束していたんだから……。
 おねーさん、無理するのやめたら、急に正直だね」


 そう。わたしは嬉しかったのだ。自分をおびえさせた『入院中を孤独に過ごす』という予想が外れたことが。
 しかも、来てくれたのは、紗雪だけじゃない。
 会社の人たちのお見舞いも、思った以上に心にしみたのである。
 わたしは、社内に特に親しい人がいるわけではない。
 だから実際のところは、お見舞いに来るのが億劫な人もいただろう。
 果たして自分が行く理由はあるのだろうか? と思った人もいただろう。
 だけどわたしは、相手がどう思って行動したのかよりも、自分自身がどう感じたかを大切にしたいと思ったのだ。
 なぜなら――……。


「人生いつ終わるかわからないから、辛いときはともかく、嬉しいときは正直に言った方がいいんだなって、最近思うようになってさ。
 ……で、お願いした本持ってきてくれた?
 わたし、楽しみにしていたんだよ」
「……持ってきたけど。
 本当にこの本でよかったの?
 明らかに、入院中の人に渡すような本じゃないけど……」
「いいのいいの。こうなったから、改めて興味持てたんだし」
「おねーさんってそういう人だよね。
 まぁ、私も気になって、同じジャンルの本を借りたけど。
 ……まぁ、こういう本を借りておいてわたしが突然死んだら。 周りの人には『ああ、やっぱり……』って思われるのかもしれないけど……。
 ということで、はい。
 『終活』の本」
「そう。これが読みたかったのです」


 『終活』。
 今回わたしは、紗雪に来てもらう際、このジャンルの本を持ってきてもらうようお願いしていた。
 わたしは今回の事故で、実際はその確率がなかったとはいえ、少し死に触れた気がした。
 なので、知識を得ておきたいと思ったのである。
 これは、同じ部屋に誰かが入院しているならやめておくべき話題だが、今この四人部屋にはわたししかいない。なので、別に構わないだろう。


 終活とは、『自分の人生の終わりに向けた活動』の略だ。
 端的に言えば、自分の死後の段取りを、生きているうちに決めて文章に残しておいたり、先に手続きを済ませたりしておくことである。

 たとえば、自分が亡くなった後、葬儀はどのように行うか。

 お墓は、すでにあるところへ入るのか。
 それとも、新たに用意するのか。
 あるいは、粉になった骨を海に撒いてしまうのか。

 財産があるなら、相続はどうするのか。
 ペットを飼っていたなら、誰に面倒を見てもらうのか。

 このような生前整理を、あらかじめして遺言として残し、必要なら生きているうちに業者に頼み、お金を支払っておくのだ。


 『終活』本では、死の瞬間を『人生のエンディング』と呼ぶことが多い。
 そう聞くと、急に死は前向きなものに思える。
 なぜなら、たとえばゲームなら、エンディングは積極的に目指すものの一つだからだ。
 死が『突然、仕方なく迎えるもの』から『徐々に、前向きに目指すもの』になれば、生きることにも前向きになれる。
 また、突然のことにもおびえないよう、あらかじめ備えておくことができる。
 多くの『終活』本は、そういったねらいで書かれているのだと思う。


 ……であれば、もっと手に取りやすく、買いやすくなってほしい。
 まだ人生というゲームの序盤である、若い人こそ、こういう本を積極的に手に取れるような雰囲気にしてほしい……。
 と思うのだが、残念ながら、なかなかそうはいかない。
 若い人向けの『終活』本はまだ少し貴重で、少なくともわたしは見かけたことがない。

 よって、今わたしと紗雪が持つ本も、年配の方向けである。
 紗雪はこの本を図書館のカウンターへ持っていくのに、さぞ勇気を必要としたことだろう。


「そうだ。200万円だって」
「えっ? 今日持ってきてもらった本の値段?」
「ううん。終活の話。
 自宅で孤独死して、二週間くらい発見されなかったら。
 もろもろの処理に、そのくらいのお金がかかるってこの本に書いてあったの。
 用意しておかないとね」
「それは知らなかった。
 ひえー……。そんなにするんだ……」


 紗雪から告げられる事実に、心がひやっとする。
 正直なところ、その十分の一くらいの額だと思っていたからだ。
 死ぬのにもそんなにお金がかかるなんて、人間社会は、つくづく孤独に冷たい……と思いかけたが、そんな単純な話ではないことは、わたしにもわかる。
 紗雪は続けた。


「読んでいて、200万円は、みんなが用意しておくべきお金なんだなって思った。
 生前人に囲まれていた人でも、孤独死することはあるから」
「あ……」
「この本にもね。毎日すごく忙しい、充実してる人が突然亡くなって。
 だけどご家族やお友達は、最近連絡がつかなくても『どこかに旅行でも行っているのかな』とか……。
 あるいは『仕事が忙しいのかな』って捉えたために、発見が遅れたパターンが載っていたの。
 前者は、定年退職されていたり、求職中で、職場っていう、つながりがなかった方。
 後者は、すごく忙しくしていたところ、突然体調を崩して亡くなった方に多いって。
 つまり、孤独死って、すごく身近なんだなって」
「一人で暮らしている人は、誰でも孤独死する可能性があって……。
 それは周囲との関係が希薄だとか、その人の人間性に問題があるかとかは関係ないってことだよね」
「うん。それを知ったら、孤独死は何もおかしなことじゃなくて、可能性として普通にあることなんだなって思えた。
 孤独であることは恥ずかしいことじゃなくて……だけど準備は必要なものなんだって思えた」


 紗雪はそこまで言うと、手に持っていたままの本をこちらに見せて、少し真面目な顔になった。
 まるで、今日はこれを伝えに来たのだと言うように。


「……だからね。私も、すごく興味を持ったから。
 これから、一緒に準備しようよ。
 今回の件で思ったけど、いつ私とおねーさんも離れ離れになるかわからない。
 このまま健康に生きていた場合だって……。
 たとえばおねーさんは結婚して別の地域に引っ越すかもしれないし、私も地元じゃない大学に進学するかもしれない。
 だから、今みたいに、ずっとそばで暮らすことは難しいかもしれないけど……。
 一緒に勉強したことはずっと残るでしょう?
 私はそうやって、この関係を未来につなげたいって、この本を読みながら思ったの。
 ……いかが、でしょうか?」


 わたしと紗雪は、お互いに友人がおらず、時間を持て余して図書館に入り浸っていたことで知り合った。
 そんなわたしたちは、孤独がいかに身近なものか知っている。 どんなに良い関係でも突然終わってしまうことはあり、お互いに非はないと思える場合でも、切れてしまうつながりがあることを知っている。
 だからこそ、紗雪は提案してくれたのだ。
 この先何が起きてもいいように『一緒に、一人で生きていける方法を探そう』と言ってくれているのだ。


「いいね。賛成! こちらこそ、ぜひお願いします。
 ……でもわたし、結婚できる気がしないんだよなぁ」
「だったらなお準備しなきゃ!
 そういう人、今はすごく多いから、同じ境遇のお友達ができたときもサポートしてあげられるし。
 最後はみんな、一人かも知れないけど……。
 その対策は、誰かと一緒にできると思うから」
「紗雪の言うとおりだね。……でも」
「うん?」


 ならばわたしも、紗雪に伝えたいことがあった。
 わたしと紗雪が一緒に死ぬことはおそらく不可能だが、別々に死んでしまったとき、残った方がその生を証明することはできる。
 たとえば……。


「もし、突然紗雪に何かあったとしても。
 『ああ、やっぱり……』って思われることはないよ。
 わたしがいるから。
 紗雪がどういう人だったか、わたしが説明するから。
 まだこんなに若いのに死について真剣に考えちゃう真面目な人だったって、わたしが伝えるから」
「おねーさん……」


 人と人の関係は儚い。
 今日一緒にいた人と、明日も一緒にいられるとは限らない。
 だから不安になるが、わたしは紗雪との関係を信じたい。
 はたから見れば不思議な二人だが、確かにわたしたちは友達だ。
 であればいっしょに過ごせる限りある時間を、できるだけ前向きに使いたい。
 

「ありがとう……。
 じゃあ、私も同じように説明してあげるね。
 『おねーさんはこの通り、入院先の病院で終活の本を読んじゃう変わり者でしたが、それは前向きな思いがあってこそのものでした』って」
​「よろしくぅ」
「ふふ。ひとまずは、早く怪我を治してね。
 退院したらこの前話した図書館のあるケーキ屋さん。一緒に行くんだから」
「うん……ありがとう」


 一緒にいるのに、孤独について語り合い、孤独死について真剣に学び合う。
 これこそいかにも変わり者の行動だが、わたしたちはそれでいいと思う。
 本を愛する孤独なふたりは、こうして今、今日とこれからについて話し合う仲間になった。
 もしそんなわたしたちの物語が本になるならば、最初の巻は、きっとこのような言葉で終わるのだ。


「では……まずは読書タイム、始めましょっか」



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【0301】「はばたく」表紙画像



 律子さんはいつも怒っていたので、わたしはなかなかその真意がはかりかねた。


 あの頃わたしは貧しく、女学校にも、親切な方の厚意でなんとか通わせていただいている状態であった。
 その親切な方というのが誰なのか、わたしは知らない。
 学長に尋ねても教えてもらえず、毎月学長を通じてわたしは学費を頂戴するだけ。どんなに感謝をしても、それを伝えるすべはない。
 ならばせめてまじめに勉学に励もうと毎日せっせと通い、結果、ほかの娘たちよりも随分みすぼらしい格好で、不釣り合いなまま、この女学校の生徒として混じっていたわけだ。


「ねぇ、貴方」


 そんなわたしに声をかけてきたのが、律子さんであった。
 律子さんは学校一豊かな家のお嬢様で、華やかで目立ち注目され、それゆえに批判され、よく傲慢で意地悪な人だと噂されていた。
 つまりわたしとは、あらゆる意味で別世界の人である。
 それでも律子さんがわたしを気にかけた理由はわかる。
 律子さんのような裕福な人と、わたしのような貧しい人間は、同じ空間にいること自体奇妙だ。ゆえに、どうしても目に入るからである。
 律子さんからすれば、わたしの存在自体が不快であろう。
 だから、こんなことを言い出したのだ。


「私の家へ来て裸になりなさい。絵のモデルになるのよ」
「わかりました」


 これ以上不快感を与えぬよう、素直に従ったつもりであった。
 しかし、律子さんはわたしの態度が気に入らなかったらしい。
 まるで侮蔑されたかのような表情を浮かべ『なぜ従うのか理解できない』というようすで、放課後迎えにくるという旨だけを告げて去っていった。
 わたしにはこれが不思議であった。
 わたしにとって、律子さんの誘いに応じるのは極めて自然なことであった。
 なぜならこの誘いは、嫌がらせや冗談のたぐいではない。
 極めて正当な報酬があり、困窮するわたしにとっては渡りに船の仕事だったからである。


「貴方ってお金のためなら何でもするのね。卑しい人」


 かくしてわたしは律子さんのヌードモデルとなったが、わたしと会うとき、律子さんはつねに不機嫌であった。


「私、貴方みたいな人大嫌い。人形みたいだから」


 律子さんはこのように、何を言っても、どのような過激な格好をさせても、黙々と、淡々と言う通りにするわたしが嫌いだと言いながら、わたしの絵を描いた。
 場所は律子さんのご自宅で、表向きには、わたしは単に友人として招き入れられ、彼女の自室で楽しくおしゃべりして過ごしているというていであった。
 しかし実際はこのように険悪であった。そして淫靡であった。
 わたしは夕暮れの律子さんの自室で、律子さんと二人きりで、裸になり、命じられるがまま、誰にも見せたことのないような、そして今後も誰にも見せることもなさそうな体勢を取り、己の体のすべてを見せた。
 そしてそれが律子さんの画力向上につながるよう願い、さらに彼女の要求に答えた。


「こんな姿を残してしまって、貴方は可哀想ね。
 私だったら、こんな絵が存在していること自体が耐え切れないほどの恥だわ。
 これをねたに、一生私に脅されるようなものでしょう」
「わかりました」
「……わかりました、って、何?
 貴方は何をわかっているの?
 貴方はいつもそうね。『わかりました』って言うだけ。
 本当は何もわかっていないくせに『わかった』と言うのはおやめなさい。
 わからないならわからないと、はっきり言えばいいのよ」


 ある日、わたしは律子さんを怒らせた。

 それでも、単に言葉を間違えただけなのだと思った。
 『わかりました』では確かに会話が成立しない。
 この言葉はすっかり口癖になっていたので、思わず間違った場面で使用してしまったが、今は『そうですね』と同意すべきだった。と思ったのだ。それでかまわなかったからだ。

 だけど実際、わたしは何もわかってはいなかった。
 それに気づいたのは、わたしが律子さんにありとあらゆる格好の絵を描かせ、そのぶんだけ、いや『裸の絵を描かせているから』と思うことでやっと納得できるような額の高すぎる報酬を受け取り、結果以前よりは身綺麗になり。なんとか周囲に馴染む程度になった頃であった。


 律子さんが突然、学校にいらっしゃらなくなったのだ。


「律子さんのおうちって、違法なことで荒稼ぎをしていたらしいわ。
 それが、とうとう見つかって、家族そろって逃げ出したのだとか……。
 恐ろしいのは、律子さんもそれを理解していて、むしろ積極的に参加していたということ」
「あの人ならやりかねないわ。
 私達に対してだって、人を人とも思わないような冷たい態度だったじゃない。
 あんな感じで、人を騙したり、傷つけたりして。
 それでお金を手に入れていたんだわ」


 級友たちの会話に当然わたしは混じることができず、そのときもただぽかんと彼女達の後ろの席で、彼女たちが話す律子さんの噂話を聞いていた。


「でも、どうしてそこまでお金を欲しがったのかしら。
 悪いことなら家の人や召使いにさせて。
 自分は知らんぷりをしていれば……。
 手を汚さずにいられたでしょうに」


 『わからない』と思ったし、わかるような気もしたので、つい『わかりました』と、いつもの口癖が口をつきそうにもなった。


「わかりません……」
「えっ?」


 突如椅子から立ち上がったかと思えば、会話に割り込んできたわたしを見て、級友がけげんな表情を浮かべる。
 当然のことである。
 あまりに唐突すぎるし、わたしはこの会話に無関係であったし、そもそもこの方とわたしは、まともに会話したこともないのだ。
 かつて薄汚くみすぼらしかったわたしは、決してそうではなくなった今も、周囲からは遠巻きにされていた。
 それをしなかったのは、唯一律子さんだけであった。


「わからない……」


 弾かれたようにわたしは駆け出し、そのまま学長室へと向かう。
 安易だが、他には思いつかなかった。
 理由は全く不可解だが、それしか考えられなかった。


「あぁ、君か」


 わたしが姿を見せると、学長はいつもと変わらぬ様子で書類から顔を上げる。


「あの……」
「昨日、いつもの方がいらっしゃったよ。
 しばらく来られないそうなので、君が卒業するまでの学費を全て払っていかれた。
 あと、君宛にこれを受け取った。持って行きなさい」
「そう、ですか」


 聞きたいことがあったのにうまく言い出せず、言われた通りに学長から一枚の封筒を受け取る。
 それは薄い。金品などではないように思える。
 それからなぜか、ここで開くものではないように思える。
 わたしは会釈して退室すると、ひとけのない廊下で、その封筒を開いた。


 中には、一枚の絵が入っていた。
 わたしの絵が描かれた、一枚の画用紙が入っていた。
 ただし裸の絵ではない。
 ただわたしの顔だけを正面から描いた、色鉛筆の絵が入っていた。
 無表情にこちらを見ている、わたしだけがいた。


「なぜ……?」


 わたしは長らく律子さんの家にモデルとして通ったが、律子さんが描いた絵を見せていただいたことはない。
 いつも裸にさせられたので、てっきり裸の絵を描かれていると思い込んでいたが、実際に彼女が何を描いていたかは知らなかった。
 あの人の目にわたしはどのように映り、わたしはどのように描かれていたのか。
 ゆえにいつもそれが謎であったが、今、その答えだけがあった。
「わからない……わかりません、律子さん」


"わからないならわからないと、はっきり言えばいいのよ"


 いつかわたしは、律子さんにそう言われたことがある。
 だから今、はじめてそうしたのに、答えをくれるものはいない。
 律子さんはなぜわたしを気にかけたのだろうか。
 なぜわたしを描き続けたのだろうか。
 そしてモデル料と称して、わたしに生活費を、いや、学費すらも払い続けたのだろうか。

 貧しいわたしが哀れだったのだろうか?
 卑屈なわたしに施しをし、裸にすることでさらに辱める、遊びをしていたのだろうか?
 それとも単に、わたしの裸が見たかったのだろうか?


 わからない。何一つ見えてこない。
 わかりたいのであれば――……。


「律子さん、わたし、あなたを探します」


 何一つわかりもしないのに『わかりました』と言って、このまま終わりにはできない。
 何一つ納得できないのに『わかりました』と言って、ものわかりのよいふりもできない。
 わたしは何もわかっていない。
 あれだけいっしょに過ごした人のことを、何一つ知らない。

 
 わたしは階段を降り、はばたくように駆けだす。
 生まれて初めて、自分の意思だけで行動した日のことであった。




■表紙素材:倉吉 ひとか さま

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【0227】「思い出はアセロラ味」表紙画像



 実のところ自分は、とても物欲の薄い人間だったらしい。

 わたしがこれに気づいたのは、かつて狂ったように恋した佐和名さんを、ついに諦めた後だった。
 当時わたしは、佐和名さんのすべてを欲した。
 彼女の恋人になりたいのはもちろん、彼女を産んだ母親になりたいとすら願った。
 それが不可能なら、佐和名さんから優しい言葉、ささやかな贈り物、忘れられない思い出をいただけないかと思ったし、これも無理なら、床に落ちた彼女の、長くやわらかな髪の毛が欲しかった。

 だけどわたしは、とても臆病であった。
 佐和名さんが気味悪がることは『嫌がることをしたくない』という意味でも『嫌われることをしたくない』という意味でもできず、そして、何度か真剣に想いを伝えたが、それが届くことはなかった。


「好きです」


 わたしがそう言うと、佐和名さんはいつも『ありがとう』『自分も友達としてあなたが好き』という主旨の言葉をくれた。
 わたしの告白は本心と思われなかったのかもしれない。
 あるいは本心と理解したからこそ、そう返事したのかもしれない。
 こうしてわたしは失恋し、佐和名さんに恋人の影を見た日、とうとう距離を置いた。
 その後、強欲だった自分が、佐和名さん抜きではひどく物欲の薄い人間と気づいたのだ。

 かつてのわたしは、佐和名さんが捨てた、飴の空箱さえ欲しかった。
 だけど今は、自分の持ち物さえ滅多に増やさない。
 ミニマリストに近い性質だと気づいたのだ。

 そんなわたしが、唯一今でも欲しがるものがある。
 あの頃佐和名さんがよく舐めていた、アセロラ味のキャンディーだ。

 この飴を手にする時、わたしは思い出を買い、食べている。
 北欧の国で作られた、口の中ですうすうと甘く香る味を確認し、佐和名さんとの日々を反芻する。
 それだけが、今のわたしの唯一の物欲、いや、欲求なのだ。
 果たしてわたしはいつまで、この飴を買い続けるだろう。
 できることなら、一生買い続けることだけは、許されますように。
 そう願いながら、わたしは今日もこのキャンディーを舐める。


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【0225】「わたあめの恋」表紙画像


「飴川さん。キスしよう?」


 雨上がりの帰り道。
 高架下からすぐの公園まで来たところで、綿貫さんが、内緒話をするようにこう言った。


「うん」


 と、一も二もなく頷いたが、綿貫さんとキスがしたいせいで、あまりにも素直すぎる自分は、なんだかまぬけだ。
 綿貫さんに恋をしてから、わたしの心はずっとふわふわ、きらきらしている。
 少し前までのわたしは、外でキスをするなんて、一生ありえないだろうという毎日を送っていた。
 人生の暗い季節をトンネルに例えるなら、わたしは生涯そこから出られない。
 ずっとじめじめとした光のささない世界で、一人孤独に生きていくのだと、そう思っていた。
 にもかかわらず、今のわたしの隣には、こんなにかわいい綿貫さんがいる。
 もしかしたら夢なのかもしれないが、これは思ったよりも長く続いている夢だ。
 ならばこのまま夢の世界にいたいと、わたしは思っている。


「目を閉じて」


 綿貫さんがそう言い、わたしが従う前には、もう唇が触れた。
 綿貫さんはこうなのだ。
 わたしが不意を打たれてドキドキして、息をのみ、慌てて、恥ずかしがる様を見るのが好きなのだ。
 それをわかっていて従う、わたしもわたしだ。
 わたしはこの人に翻弄されていたいのだ。
 この新しい世界に、ずっと驚いていたいのだ。


「飴川さんはかわいいね」


 じんわり滲む視界で、綿貫さんが微笑んだ。
 綿貫さんのせいで甘い涙に濡れた世界は、淡くゆるやかにきらめいている。
 ありふれた児童公園まで特別な世界に変えて、わたしの呼吸さえ奪っていく。
 この恋はわたあめだ。
 唇で触れると、とろけるように柔らかくて、舌でそっと舐めとった途端、甘ったるく、じゅわっと縮む。


「好き」


 あぁ、ずっと、この世界にいられますように。


「わたしもです……」


 息をするのもやっとなほど、胸いっぱいなまま。
 わたしは勇気を出して、そっと綿貫さんの手を握った。


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■表紙素材:ヒアルロン酸 様

■お題:「フリーワンライ」第119回より

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